23回卒 照山龍治様から随筆風旅行記「色で辿る大地と歴史4」を寄稿していただきました。


随筆風旅行記

「色」で辿る大地と歴史4

~ 「碧(アオ)の大地」、「関」と「岬」 ~

照山龍治(23回卒)

大分市の東端佐賀関には、黒い石の「黒が浜」白い石の「白が浜」が隣接し、それぞれ、

「日本の渚百選」として、また「海水浴場」として、広く知られている。

そして、その間には、通る人々の目を引く「碧の大地(姉妹岩など)が広がる。

この「碧の大地」はどのようしにて生まれたのか?ここを訪ねるたびにそう思ってきた。

それを、海洋研究開発機構理事長・平朝彦氏東京工業大学教授・中島淳一氏、大鹿村中央構造線博物館が興味深く解説してくれる。

古事記や日本書紀には『イザナギ』『イザナミ』、国生みをしたと記されている。これは神話の世界であるが、現実の世界でも、かつてアジア大陸の東側に存在し『イザナギ』と名付けられた『海洋プレート』が日本列島の誕生に深く関わっている。

この「海洋プレート」が海溝で潜り込むときに、プレート上の堆積物が剥ぎ取られ、アジア大陸に付加されて「日本列島の原形」が誕生した。

誕生当時は、『北側の大地』『南側の大地』は分かれており、『北側の大地』は朝鮮半島から黄河流域辺りまでのアジア大陸に、『南側の大地』は揚子江からその南にかけてのアジア大陸にへばりついていたが、ある時期、『南側の大地』は、『北側の大地』の位置にまで北上し、今の位置で『北側の大地』合体した。

その接合部分が、『中央構造線』であり、その南側に、「碧い大地」が広がる「三波川(さんばがわ)変成帯」が走る」と。

つまり、「碧の大地」は、地下1530kmという深部で、泥岩砂岩などが低温高圧下で変成を受けた結果、板状の碧い「緑色片岩」となり、その後「三波川変成帯」として地表に露出したものである。

 

そして、「佐賀関」と対岸の「佐田岬」は、共に、この「三波川変成帯」という地質帯の中にあるという。

(黒ヶ浜)

 

佐賀関の海岸を走る道路沿いに、「黒ヶ浜」はある。一面が、黒く光る石で覆われていた。その中の黒い石を手に取って見た。まるで黒い碁石だ。

(碧の大地)

「黒ヶ浜」を後にして、「白ヶ浜」に向かう。狭い海岸沿いの道に車を走らせると、両側に「碧の大地」が広がる。途中の岩礁も途中の崖も碧い。海に浮かぶ碧い岩礁「姉妹岩」である。伝説では、神武天皇が東遷の折、大ダコが守っていた神剣をひろいあげ、奉献したという海女、黒砂(いさご)・真砂(まさご)姉妹を祀っているそうだ。

 

岩場では、釣りを楽しむ人もいた。良い釣り場のようである。

(白ヶ浜)

 

白い浜が見えた。ここが大分県でも五本の指に入る有名な海水浴場「白ヶ浜」だ。海岸に降りた。確かに白い。白い砂浜が広がっていた。ただ、よく見ると白い石の中には、碧い石混在している。

(半島中央の木佐上へ)

日を変えて、佐賀関半島の中央部「木佐上地区」へ。大分市中心部から佐賀関へ車を走らせること40分程度。中尾ダムに着いた。大分市の森林公園である。崖は少し黒みがかった碧い石(緑色片岩)である。至る所に露出。中には石英を含んだ岩もあった。さらに登ること10分程度。「樅の木山登山口」に着く。さらに露頭は増える。石英も多く含むようになった。

そして「樅の木山」登山。歩くこと1時間。標高484mの頂上に着く。途中の山肌は石英を孕(はら)んだ碧い岩である。樅の木山から下山。

 

樅の木山登山口から、車で走ること10分程度。「轟神社」に着く。石垣や石段には碧い石、古くから、身近にある碧い石を利用、このような景観が作られてきたのであろう。まもなくして「轟ダム」。此処も「碧の大地」である。碧い石はハンマーで叩くと板状に割れる。

(対岸、佐田岬へ)

佐賀関から佐田岬までは、速吸瀬戸(はやすいのせと、豊予海峡)をはさんで、約14㎞。

「古事記」「日本書紀」の中で、「神武天皇東征の折に、速吸門(はやすいのと、豊予海峡)が登場することや、蛸断(たこだち)祈願民俗伝承が海峡間で共通して存在することから、豊予海峡の存在は古くから知られ、人や物の交流も盛んであったことが伺える。

国道九四フェリーで、佐賀関港から三崎港まで、70分の航海だ。

出航まもなく左手に、小さな岬の端に碧い岩礁が見えた。黒が浜と白が浜の間の碧い岩礁(姉妹岩)に似ていた。航行時間の半分が過ぎて、次第に佐田岬の海岸線がはっきりして来た。

 

佐田岬の南側、航路に面した海岸線は、「緑色の岩」で埋め尽くされ、「碧の大地」が広がっていた

三崎港で船を降りた。観光協会の方の強い勧めで、四国初の天然記念物、三崎の「アコウ樹」を訪ねた。根が「碧い石」を抱き込む姿に驚く。そして、街歩き。至る所に、「碧い石」、家の礎石や石垣、神社の石段、ミカン畑の石積など。全て碧い石。いわゆる「伊予の青石」である。

特に、海は、綺麗な海水と相まって綺麗な碧に染まっていた。

「碧の大地」が佐田岬全体に広がっているようだ。海岸に降りてみた。碧一色。

 

ただ、海岸に降りてよく見ると、碧い石の中には、赤い石や白い石なども混在していた。

(宇佐八幡と三崎八幡、そして八幡浜 矢野山八幡)

佐田岬と九州を結ぶ玄関口、三崎港の近くには、創立860年(貞観2年)の「三崎八幡神社」がある。云い伝えによると八幡宮が宇佐神宮から石清水に勧請された翌年に、ここ三崎にも宇佐神宮から,勧請されたとのことである。

 

宇佐神宮には、特殊神事として「放生会」と「行幸会」がある。そのうち、「行幸会」は、隼人征伐に関連して八世紀の半ばに始まったといわれている。四年に一度、宇佐神宮のご神体「薦枕(こもまくら)」を新調し、古い「薦枕」を海に流すという神事である。

その古い「薦枕」は、杵築市の奈多八幡宮から、竜宮に返すため海に投げ込まれ、潮に乗って豊予海峡を通り、伊予の八幡宮に流れ着く(八幡浜市の矢野山八幡宮に納める)といわれている。

 

ただ、莫大な経費を要したため、鎌倉期に中断、元和元年1615年)に細川忠興による150年ぶりの挙行以降、再興されていないようだ。

(特異な自然との共生)

「佐賀関」と「佐田岬」は、「三波川変成帯」という地質帯の中にあり、多くの岩場からなる急峻な土地である。平野が少なく、土地の保水力が弱い

太平洋に面して、台風が来れば波風に晒され、地震が起これば津波にも襲われる

そのため、水を確保し、家屋や田畑を台風の波風や津波から守る必要があった。

は、碧の大地に「知恵」と「手」を加えていった。碧い石を積んで畑や水田を造り、井戸を掘り、水路を巡らせた。そして、家屋の基礎には碧い石を敷き詰め、家屋の水準を上げ、その周りに石垣を張り巡らした。

 

佐賀関と佐田岬の景観は、まさに自然と人が作りだした「機能美」「造形美」である。

(地域教育・地域振興)

その中で、佐田岬(伊方町三崎)には、注目すべき取組みがあった。

 

それは、地域の子供たちやお年寄りが、「佐田岬みつけ隊」を組織、ふるさとの「大地」や「歴史」を、地域ぐるみで学び合い、「当たり前のように積みあがる碧い石が世代を超えて、半島の人々の暮らしを支えてきました」で始まる「さだ みさき・フリークbook」「碧い石垣」を発行していることである。

そして、その初号には、「佐田岬(半島)の暮らしにとって、石垣は欠かせないものでした。平野が少ない中、石垣を築くことで傾斜地に平らな宅地や畑を作り、道を開きました。

また、年間を通して吹く強い風や海からの塩を防ぐため、巨大な石塀が作られ、畑や納屋

も石で囲みました。貴重な水を得る井戸、道端のお地蔵さまも石で囲っています。港に築かれた石波止は、海と船を通じて漁業だけではなく人々の交流も支えました」と、地域の「大地と歴史」が、分かり易く紹介されていた。

つまり、「日常」や「当たり前」に、関心を寄せ身の回りの大地や歴史から「地域の宝物」を掘り起こし、その価値観を地域で共有し、広く発信している。「ここが私たちの故郷です」と。

このように「碧い石」という視点から身の回りを捉え直してみると、これまでとは異なった「見え方」になるようだ。

そこで、「碧(アオ)」という色の視点から、あらためて大分の「大地と歴史」を捉え直してみると、「姉妹岩」などの碧い岩礁をはじめ、亀塚古墳碧い「海部の石棺」街並み碧い「石垣」「地域の宝物」に見えてくる。

 

何かを切っ掛けとして、身の回りに関心を持ち、見方を変えて「日常」や「当たり前」を捉え直す、そのような取組みが、地域教育や地域振興に繋がっていくのであろう。

(20195月の旅行から)