随筆風旅行記
「色」で辿る大地と歴史3
~ 青(アオ)と温泉と古代地震、そして土蜘蛛・五馬媛 ~
照山龍治(23回卒)
「青」は、古代において、緑・紫等とともに「アオ(漠)」と呼ばれていた。
そして、現代、基本色名の一つとされ、「水色」、「空色」、「紺(こん)色」、「藍(あい)色」、
など青系統の「固有色名」の総称とされている。
つまり、「青」には、「水色」や「空色」などといった明度が高く彩度の低い淡い色合いの「色」も、「紺色」や「藍色」などといった明度が低く濃い色合いの「色」も、含まれるということである。
それは、「空の色」には、「空色」という「固有色名」があるにもかかわらず、「青い空」と呼ばれることが良い例である。
そのような中、「豊後風土記」「日田郡」の条、「靫編(ゆぎあみ)の郷」「五馬山」には、その「紺(こん)」という明度が低く濃い色合いを持つ「青色」の「温泉」が、「慍(いかり)湯」として登場する
(豊後風土記に「慍(いかり)湯」)
「豊後風土記」には、次のように記されている。「昔,この山に「土蜘蛛」がいた。名前を「五馬媛(いつまひめ)」という。それによりこの山を「五馬山」という。この「五馬山」には、天武天皇の御世、天武紀7年(678年)12月に「大きな地震」があり、大規模な山崩れが起きた。そして所々から大変温度の高い温泉が吹き出した。その中、1か所の湯は、井戸に似ている。穴の直径は約3m余り、深いか浅いかはわからない。水の色は紺(濃い「青色」)の如し、いつもは流れていない。人の声を聞くと、驚き怒り、泥を噴き上げる(間欠温泉と考えられる)。その高さは約3m。それを「慍(いかり)湯」と呼んだ」と。
また、日本温泉協会によると、「青色」の温泉には、「澄んだ青色」、「薄い水色」、「濁りのある青白色」がある。その中で、「澄んだ青色や薄い水色」は、「メタ珪酸(シリ力)の含有量が多い高温の温泉」で発色し、光の反射等で「色あい」が変化する。そして、「濁りのある青白色」は、「硫黄化合物と光の反射」で発色するとのことである。
(土蜘蛛・五馬媛)
「土蜘蛛」は、古代日本で朝廷や天皇に従わなかった「土豪たち」を示す名称である。そして、「古事記」や「日本書紀」の中では、「都知久母(つちぐも)」や「土蜘蛛」として登場する。
さらに、陸奥国・越後国・常陸国・肥前国・豊後国の「風土記」にも「古老曰く」、「昔」などの書き出しで、「伝説」として記され、当時、まだ辺境とされた各地の風土記などにその名を残している。
その中で、古事記・日本書紀・風土記に登場する土蜘蛛の分布領域をみると、豊後国は4箇所(日田郡、直入郡、大野郡、速見郡)で、肥前国と大和国に次いで多い。
また、首長と思われる名前も、『豊後国風土記』には、五馬山の①五馬姫(いつまひめ)、禰宜野(ねぎの)の②打猴(うちさる)・③八田(やた)・④國摩侶(くにまろ)、網磯野(あみしの)の⑤小竹鹿奥(しのかおさ)・⑥小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠(ねずみ)の磐窟(いわや)の⑦青・⑧白、➈石井の土蜘蛛、⑩蹶石野(はむしの)の土蜘蛛という10人の土蜘蛛が登場する。これは、「肥前国風土記」に次いで多い。
(筑紫地震と白鳳地震)
「豊後風土記」に記された天武紀7年(678年)12月の「大きな地震」は、「日本書紀」にも登場する。
「天武紀7年(678年)12月に筑紫国を中心に大地震が発生し、巾・約6m、長さ・約10kmの地割れが生じ、村々の民家は多数破壊された。また、丘が崩れ、その上にあった家は移動したものの破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜が明けた後に知り驚いた」と。
そして、その「痕跡」は、久留米市の「味水(うましみず)御井神社」横の「断層崖」や、「中谷川」の流れの「ズレ」等により確認できる。
また、この「大地震」は、「筑紫地震(つくしじしん)」と呼ばれ、震源域が、ほぼ判明しているものとしては、日本最古の歴史地震とされる。
さらに、「日本書紀」には、「『筑紫地震』前後からしばしば地震の記述があり、『筑紫地震』の約6年後には、南海トラフ巨大地震である『白鳳地震(はくほうじしん)』が発生した」とも記されている。
この「白鳳地震」は、白鳳時代(飛鳥時代後期)、天武紀13年(684年)10月に起きた南海トラフ沿いの巨大地震で、マグニチュードは、M8.4ないしM8.3、あるいはM8~9などと推定されているものである。(因みに、東日本大震災のマグニチュードは、M9.0である)
また、「日本書紀」天武紀13年(684年)10月の条には、「この夕刻に伊豆嶋の西北で噴火が起こり、島が生じた」とする記録があり、伊豆諸島の噴火を誘発した可能性も考えられるようだ。
この「白鳳地震」は、大分県佐伯市間越(はざこ)の龍神池(りゅうじんいけ)で発見された津波堆積物の層の厚さからも、宝永地震と並ぶ超巨大地震であったと推定されている。
そして、驚くことに、「日本書紀」12月27日の条項には、「臘子鳥(あとり、スズメ目、アトリ科の鳥)が天をおおって西から東北方向へ移動した」と記されており、この記述を、宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう、大きな地震の前触れ、生物的、地質的、物理的異常現象)であると考える説もあるようだ。
このように、豊後風土記に記されている「天ケ瀬温泉」を作り出した「大きな地震」とは、「筑紫地震」であり、南海トラフを震源域とするプレート型の巨大地震「白鳳地震」に続く一連の地震活動に含まれると考えられる。
いずれにしろ、豊後風土記に記された「大きな地震」や「それによる温泉の出現」については、日本書紀の記述や地震学からも裏付けられるということであろう。
(「五馬山」と「慍(いかり)湯」の比定地)
「五馬山」の比定地は、天瀬町五馬市とされ、そして天武紀7年(678年12月)の大きな地震で吹き出した温泉の比定地も、天ケ瀬温泉の「湯山」,「桜竹」,「赤岩」等とされている。
しかしながら、天瀬町には現在、間欠温泉はないため、「慍(いかり)湯」の場所は特定できていないそうである。
その中で、考古学的な検証も行われた。
それが、天瀬町五馬市における昭和60年(1985)の「宇土遺跡」と平成5年(1993)の「中尾原遺跡」の発掘調査である。
「宇土遺跡」では、古墳時代の特異な石棺墓が2つ並んで発掘され、共に女性が葬られていた。内部は、白い粘土で隙間を丁寧に目張りした後に、真っ赤な顔料がまんべんなく塗られていたという。
(玉来神社に五馬媛、そして、五馬市杖踊(くにち)楽)
また、五馬小学校の近くには、「元宮古墳」があり、その古墳の上には、「元宮神社」が建っている。祭神は八幡神。その社殿の左に、「五馬媛命之墳墓」と記された墓がある。
元宮古墳は、頂部で長さ40m、巾30mの前方後円墳であるとされるが、発掘調査が未だなされていない中で、古墳かどうかも定かではないという。
(青(アオ)にまつわる逸話)
ここで、青(アオ)にまつわる興味深い話を一つ紹介しておきたい。それは、「青々(アオアオ)と茂った緑の葉」という表現についてである。
つまり、「緑色なのに、なぜ『青々』なのか?」ということだ。
それを、東北大学「電気通信研究所」の栗木准教授が分かり易く解説してくれる。
「ジェームス・カーティス・ヘボンによって編纂され明治5年に刊行された日本最初の英和/和英辞典「和英語林集成」を見ると、和英の部の「アオ」には「light green or blue」という訳、「ミドリ」には「green color」という訳が書かれ、逆に、英和の部の「blue」には「アオ」、「green」には「アオ、ミドリ」と書かれている。つまり、明治初期には、「ミドリ」は、「アオ」と異なるという認識はあったものの、日本語で「アオ」という場合、英語では「green」と「blue」を認識していたということが分る。
また、「古代の日本では、『有彩色(無彩色(白,灰,黒)以外の色)』を、『アカ』と『アオ』に2分し、現在の『青』と『緑』をまとめて『アオ』と呼んでいた。そして、言葉が成熟するにつれて、詳細に区分するようになり、「アオ」が、現代の「緑」と「青」に分化した。
そして、「現代に到るまで、日本古来の『アオ』の用法が生き残っているのは、日本が島国であったため、外国の人と直に接する人が少なく、『青』と『緑』を正確に区別することを迫(せま)られたのが、一部の人であったからであろう」と考察している。
これは、「青(アオ)」の探究に始まり、豊後風土記から、「青い温泉」を掘り起こし、その温泉の出現要因となった「大地震」を、日本書紀などの文献から調べ、関連する土地を巡る中で、古代地震の痕跡や女王「五馬姫」と出会うこととなる私たちの旅行記である。