随筆風旅行記
「色」で辿る大地と歴史2
~ 赤(アカ)と装飾(彩色)古墳 ~
照山龍治(23回卒)
「真っ赤な嘘(うそ)」と言えば「明らかな嘘」となり、「赤の他人」と言えば「明らかな他人」となる。それは、日本人の本質的な「色彩感覚」に根源があるようだ。
それを、国文学者の佐竹昭広氏は、「古代日本語の色名の多くが具体的なモノに起源を持つが、そのモノがなくても色を表す言葉がある。それが、「アカ」「シロ」「アオ」「クロ」である。それは、「アカ」や「シロ」などが、本来、色名ではなく、光の感覚であったからだ。「アカ」は「明」を、「シロ」は「顕」を、「アオ」は「漠」を、「クロ」は「暗」を表す。つまり、「赤(アカ)」は「明らか」と同源である」と解き明かす。
そして、「赤」は、人を高揚させる効果を持ち、「血」や「炎」の色でもあり、文化の中で「赤」は重要な色の一つとして常に扱われてきた。
その「赤」は、辰砂(しんしゃ)や朱砂(しゅしゃ)と呼ばれる硫化水銀(水銀朱)のほか、弁柄(べんがら)という酸化鉄、鉛丹(えんたん)という酸化鉛により発色する。
その中で、天然の朱(水銀朱)は、本朱と呼ばれ、赤みの強い深い色合いの発色がみられる。そして、朱の合成法も古代から知られており、合成された朱(水銀朱)は銀朱と呼ばれ、本朱に比べて少し黄色が強く出るそうだ。
その水銀朱は、色彩とともに耐腐食性から、東洋では古代より、呪術的な意味合いを持って使われてきた。例えば、「春日大社の本殿」や「平等院鳳凰堂の中堂四面扉」には水銀朱が塗られ、「高松塚古墳」や「キトラ古墳」など古墳の石室に描かれた壁画にも水銀朱が使われた。そして、死者を葬る際や祭祀の場には、魔除けとして水銀朱が施された。
一方、弁柄(ベンガラ)は、しばしば水銀朱の代用として使用され、高彩度ではないが、手に入り易く安価なため、古墳や古画、土器などに多く見られる。つまり、赤褐色の発色成分の大半はこのベンガラである。また、黄土は、強熱すると酸化鉄となり「赤色」を発色するため、ベンガラとともに「赤色」の色材としても活用されてきた。
また、鉛丹は、水銀朱と同様に、防腐効果のある高彩度の「赤色」顔料として、使われてきたが、硫黄と反応し黒変するという負の要素も合わせ持つという難点もある。平安時代の建物や船底の塗料に多く用いられてきた。
この他にも、現在は、化学的に合成された樹脂など有機顔料も朱の代替として多数存在するが、本来の朱とは程遠い色合いである。
そのうち半数以上、約340基が九州地方、特に熊本県と福岡県に集中している。中でも福岡県桂川町の「王塚古墳」(国の特別史跡)や熊本県山鹿市の「チブサン古墳」(国の史跡)が有名である。
「装飾の方法」としては、「浮き彫り」、「線刻」、「彩色」の3つの基本手法があり、それを併用しているものもある。多くは4世紀末から7世紀頃までに造られているようだ。初期の手法としては、彫刻が主流で、線刻も一部用いられ、彩色は「赤の顔料」のみであった。これが、5世紀に入ると、「赤以外の色」も使用されるようになるが、基本色は、「赤」である。そして、6世紀になると、彩色だけで文様が描かれるようになる。
その「装飾古墳」は、大分県にも17基が確認されている。
(日田盆地に彩色(装飾)古墳)
日田盆地には、日田市石井町の「ガランドヤ古墳群」、同市内河野の「穴観音古墳」、そして同市刃連町の「法恩寺山古墳群」という[彩色]が施された「装飾古墳」がある。
「ガランドヤ古墳群」は、三隈川の左岸段丘に、3基の円墳として、6世紀中頃から後半に造られた。筑後川流域の装飾古墳文化圏に属する。1993年(平成5年)には国の史跡に指定された。
第1号墳の石室には、「赤色」と「緑色」の顔料で、手を広げた人物、馬、舟、鳥、円文等が描かれている。
第2号墳の石室には、「赤色」で下塗りをし、その上に「緑色」の顔料で、弓を引いた騎馬の人物、同心円文、連続山形文等が描かれている。そして、第3号墳は、現在、墓所になっており、墳丘や石室の石組もほぼ破壊されていた。
この顔料は、大分県立歴史博物館の分析によると、赤色が「ベンガラ」、緑色が「海緑石と緑土」である。
なお、海緑石は、ふつう泥岩や砂岩の中に青緑色の微粒として存在するもので、緑土は、凝灰岩などの火山ガラスが海底などで変質したものである。
「穴観音古墳」は、三隈川の左岸の台地に7世紀初頭に造られた円墳、筑後川流域を代表する装飾古墳である。1933年(昭和8年)には国の史跡にも指定された。
石室には、「赤色」と「緑色」の2色で、飛鳥、同心円文、舟、両手足を広げた人物が描かれている。中でも、同心円文や舟は輪郭線の内部が窪(くぼ)められているが、これは彫刻文様が多い肥後地方の影響だという。
このように、日田地方は「分水嶺」から見ても、このように「装飾古墳」から見ても、文化圏、経済圏ともに筑紫平野に属しているにもかかわらず、何故か、古より行政区は、東九州の「豊国」に属している。
その理由を、歴史作家の関裕二氏は、「古代史謎解き紀行」の中で、「日田の地形は西からの攻撃に強いが、東からの攻撃には弱い。平時は西側の文化・経済圏として活動していても一旦有事となった場合は東側に落ちる。大和建国の前後で西の北九州と東の大和が争っていた時代には、防衛上の要所であった。そのため、近畿の大和政権が確立して行政圏を定めた折に、日田を東九州の豊国に組み入れたのだろう」と言う。
さらに、関裕二氏は言う。「これは近世になっても防衛上の重要性は変わらず、江戸幕府は日田を天領として北部九州の抑えとした」と。
(玖珠丘陵に彩色古墳)
「鬼塚(おにづか)古墳」は、伐株山の西麓、玖珠川左岸にある。彩色が施された「装飾古墳」である。築造時期は、6世紀後半。
石室には、三重の同心円文や円文、船、人物などが描かれている。これらの文様は「赤色」を基本としているが、一部「白色」や「黄色」の顔料も見られる。
玖珠町教育委員会によると、「同心円文の多用と船の絵柄などから、筑後・浮羽地方の影響を強く受けたと推定される。日田地域ののびのびとした自由画風の絵柄とは異なり、やや典型的(オーソドックス)で、特に奥壁全体に同心円文や円文を描く構図は、福岡県うきは市吉井町の日岡(ひのおか)古墳の奥壁を思わせる。筑後川とその支流である玖珠川沿いの文化交流が想像できる」とのことである。つまり、古代においては、筑後川やその支流である玖珠川などの川が交通の幹線となり、川沿いに文化が広がっていったということであろう。
私たちは、地域の人のご厚意で、石室内に入ることができた。
一説に、「古事記」でいう「黄泉(よみ)の国」が、古墳の「玄室(げんしつ)」であり、「黄泉平坂(よもつひらさか)」が、「羨道(せんどう)」であるという考え方がある。その中で、古墳に入り、真っ暗な「羨道」を通って、「前室」から、「玄室」を観た時に、古の人々の死生観に想いを巡らせるのは私だけであろうか。
石室には、「赤色」の顔料で壁画が描かれ、保存状態は極めて良好、私たちにも円などの文様がハッキリ確認できた。
地域の人々は言う。「この古墳の上に、神社を建て、その神社を中心に、春と秋の年2回、お祭りを行っている。その折には、全集落を挙げて行う」と。
このように、古墳の上に神社を建て、古墳を地域の神様として、集落を挙げて祀って来たことが、結果として、色彩豊かな石室をこれまで維持できたということであろう。これも地域の文化財を保護する仕組みづくりの一つである。
(別府扇状地に彩色古墳群)
別府市にも、「鬼ノ岩屋(おにのいわや)古墳」という「彩色古墳群」がある。
この古墳群は、円墳2基からなり、2号墳は6世紀後半、1号墳は6世紀末から7世紀初頭頃に造られたものである。国の史跡にも指定されている。
「豊後風土記」「速見郡」の条には、「速津姫が言うには、この山には、大きな石窟がある。『鼠の岩屋』という。土蜘蛛が二人住む。名を『青』・『白』という」と記され、その「鼠の岩屋」がこの「鬼ノ岩屋古墳」だと言われている。
また、実相寺には、「実相寺古墳群」がある。2017年2月には国の史跡に指定された。
その中で、「鷹塚古墳」は、2010年の第3次発掘調査の結果、「方墳」であることが判明した。「方墳」は、「蘇我馬子」や「推古天皇」が葬られたとされる墓と同じ形状で、大和政権にとって重要な意味を持ち、限定的な階層にのみ造ることが許された。
その中で、西暦600年頃、ここに造られたということは、この地域と大和政権との繋がりを想起させるものである。
また、「豊後風土記」「速見郡」の条「赤湯(あかゆ)の泉」の中には、「この湯の湧く穴は、郡の役所の西北の竃門山(かまどやま)にある。その周囲は45m程、湯の色は赤くて泥土がある。これを使って「家屋の柱」を塗るのに充分である。泥は流れて外に出ると、色が変わって清水となり、東に向かって下り流れる。これによって『赤湯の泉』という」と記されており、古より「血の池地獄」の熱泥が、「赤色顔料」になることや、「耐腐食効果」があることは、広く知られていた。
「王塚古墳」では、目を見張るばかりの装飾を前にしながら学芸員に質問してみた。「外形は、全国標準の前方後円墳。なのに、内部は、九州独自の凄い迫力の装飾。私達は、これをどのように受け止めれば良いのか」と。この質問に対して、学芸員は、「外見は、全国標準の形をとりながら大和への服従を表明しているが、内面では、装飾古墳を通して、九州人は、九州の独自文化を大事にしていくと主張している。そのような魂がこの装飾古墳の王塚古墳には籠(こも)っている」と「装飾古墳の念(おも)い」を強調した。
一方の岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」でも、「装飾古墳や石人石馬の中で眠る筑紫の君「磐井」が528年に起こした「磐井の乱」は、従来、地方豪族の反乱というのが通説であったが、近時、独自の政権を目指したものとする見解が有力になりつつある」と九州人の「自主独立への思い」を記していた。
これは、「赤(アカ)」の探究から始まり、古代の人々の、「赤々」と燃える「念(おも)い」と「思い」に出会うこととなった、私たちの旅行記である。