随筆風旅行記
「色」で辿る大地と歴史1
~ 白(シロ)と朝日長者伝説 ~
照山龍治(23回卒)
「雪のように白い」という表現がある。ただ、雪の色は、純粋な「白」ではない。
「白」は、人に見える光を全て反射する物から感じとれる色とされ、現実にはそのような物は存在しない。
「白」は「何々のように」と例えることでしか表現できない。つまり、理想的な「白色の物体」は実在しないということである。
現在では、「理想の白」に最も近い顔料として、「酸化マグネシウム」や「硫酸バリウム」が利用されているが、古代には,貝殻の粉(胡粉,(ごふん))や真珠の粉,米の粉末,鉛白(えんぱく)、水銀等が使われていた。そして、鉛白製の白粉を「京おしろい」,水銀製を「伊勢おしろい」と言っていたようだ。
その中で、特に、動物の色については「白」が尊ばれ、『古事記』では「神」が「白い鹿」や「白い猪」となり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、死後に「白い鳥」となった。
そして、飛鳥時代から平安時代にかけては、「白い」動物が見つかったことを瑞祥(ずいしょう)として、改元を行った。
最古の改元例は、山口県から白雉(しろきぎす)(白いキジ)が献上されたことを瑞祥として、大化(たいか)から「白雉(はくち)」と改元されたことだ。
また、「白亀(はっき)」の出現により、神亀、宝亀、嘉祥(かしょう)、仁寿(にんじゅ)に。さらに、「白鹿(はくろく)」の出現により、天安、元慶(がんぎょう)に改元されたという例
もある。
そして、豊後風土記には、「国名の由来」の中で、「白い鳥」が飛来し、はじめは餅に、その後、冬にもかかわらず何千株もの芋草(里芋)に化したため、天皇は喜び、この地を「豊国」と名付けたと記されている。
また、同じ豊後風土記の「速見郡」「田野」や「逸文」の中には、餅を的にして矢を射たため,その餅が「白い鳥」と化して飛び去り,長者は滅びてしまったという「餅の的(まと)」説話もある。
そして「古事記」・「日本書紀」には、日本武尊が、「白い鹿」を打ち殺したとか、牛ほどの大きさを持つ「白い大猪」が現れたとか、「白い鳥」となって大和を指して飛んだとか、日本武尊と「白」に纏(まつ)わる記述もある。
さらに、日本各地には、「白鳥(しらとり)」に纏わる伝説がたくさんある。その一つが朝日長者伝説である。「朝日さす夕日かがやくこの山に、うるし(黄金)千杯、朱千杯」の口承歌謡で有名だ。
大分県の飯田高原千町無田にも、「朝日長者伝説」が語り継がれている。概要は次の通りである。
「1300年前、飯田高原千町無田(せんちょうむた)に、「浅井長治」という長者が住んでいた。この人は別名「朝日長者」とも呼ばれ、贅沢の限りを尽くしていた。
その長者は、ある時、神前に供えてある鏡餅に矢を射た。矢は餅に突き刺さり、不思議なことに餅は一羽の「白い鳥」となって、大空高く北の方へ飛び去った。
人々は、今の「白い鳥」は、長者の氏神、『白鳥(しらとり)神社』の使いにちがいないとささやいた。この時から、家運が次第に傾き始め、長者は財宝を山に隠し、関係した人々の口を封じた。このことが切っ掛けになり、長者の一族は没落、人々は天罰と噂した。
そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果てた」という内容である。
今も、クヌギ林の中には、二つの石の墓があり、これは長者の二人の娘、豊野姫と秋野姫の墓であるといわれているそうだ。
また、飯田高原には、この「朝日長者伝説」に加えて、長者にまつわる「七不思議」もある。
七不思議とは、「音無川」「不断鶴」「殺生石」「鳴子川」「念仏水」「青梅」「青たで」をいう。
例えば、「音無川」は、長者から「川の音がうるさい!」と怒鳴られて以来、長者の威光を恐れて、川は音をひそめたとか。
そして、「不断鶴」は、子を生むと親鶴はどこかへ去り、その後も代々、雄雌二羽が生き続けていたので、「不断の鶴」と呼ばれた。ある日、鶴は撃たれて死んだ。それを供養した「鶴之墓」もあるとか。
また。「殺生石」は、昔、石の下からガス(炭酸ガス)が出て、鳥や虫、小獣が死んでいたとか。
という内容である。
(白鳥(しらとり)神社の由来)
白鳥神社は、日本各地にあり、日本武尊の伝説に因んだ神社とされている。全国には100社以上存在するそうだ。
その中で、白鳥(しらとり)信仰の源流については、古代史研究家の芦野泉氏の説がある。「種々の白鳥伝承は初期農耕における穀霊信仰と深くかかわりを持つ。稲刈りの終わったころから翌年の春まで、日本列島には多数の渡り鳥が飛来して大量の糞を水田に残していた。鳥の糞は窒素、リン酸、カリの三要素をはじめ多くの養分を含むため、この糞による水稲の増収効果は著しい。渡り鳥の多く集まる水田と、あまり集まらない水田の間で、コメの収穫量にも差異がみられた。そのため、古代農民は、渡り鳥(ハクチョウやツルなどの白い鳥が多かった)を『神の使い』あるいは『神そのもの』として祀るようになった」というのである。
そして、朝日長者が住んだとされる九重町大字田野字北方にも、「白鳥(しらとり)神社」がある。
祭神は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)(白鳥様)と品陀和気命(ホンダワケノミコト)(八幡様)である。
境内社には、「朝日長者社」もある。
由緒としては、「神功皇后三韓征伐に軍功のあった浅井藤彦(近江国浅井郡)は、その功績により玖珠速見両郡の領地を賜わり、宇佐八幡の神職となった後、玖珠郡田野に館を構え、欽明天皇の御宇(西暦586-587)近江国浅井郡より一族の産土神である白鳥大明神を当地に勧請奉り代々の氏神として尊崇した。
用明天皇の御宇(586-587)、十七代「浅井長治」のときには、「朝日長者」の称号を賜はり一族ますます繁栄し、白鳥大明神の御恵に感謝すると共に、宇佐八幡大神をも合祀し、白鳥神社として末長くお祀りを続けた。
後の人びとはこの朝日長者の業績を称え、境内に御夫妻をまつる小祠を建て白鳥神社と併せて尊崇しつづけている」と記されている。
現在でも「長者原(ちょうじゃばる)」とか、「千町無田(せんちょうむた)」など朝日長者にまつわる地名が残っている。
(千町無田の名の由来)
その「千町無田」は、九重町田野の飯田高原(はんだこうげん)にある。東西約2キロメートル、南北約1キロメートル、標高870メートルの湖跡平地である。江戸時代には、幕府の直轄地(いわゆる天領)だった。日田代官所の記録によれば、何度か開拓を試みたがいずれも失敗したという。
千町無田は、黒ボク土壌(腐植に富み黒色で軽くてきめの荒い表層土と明るい褐色の下層土をもち、腐植と火山灰土とから成る土壌)が低地に集まってできた湿地、黒ボク土の水田地帯である。このような黒ボク土の水田で稲作を行えば、問題になるのがリン酸の欠乏である。
この黒ボク土壌は、昔から作物がとれない土として農家から特別視されてきた。リン酸などの肥料が供給されない限り、水稲の生育はきわめて悪くなる。
農業環境技術研究所の小野信一氏は、「情報:農業と環境 No.99」(2008年7月1日)の中で、「豊後風土記の記述が正しいとすれば、奈良時代以前にこの千町無田では、どのように稲作が行われていたのか。肥料分はどうだったのか」としながら、「渡り鳥の飛来が多く、この鳥が糞(ふん)としてリン酸などの養分を供給したため、水田でよくコメが採れた。鏡餅の的に矢を射かけると白い鳥となって逃げた。つまり、食用として野鳥を乱獲したため、野鳥の飛来が激減して水稲のリン酸が欠乏した。そのため、コメが採れなくなった」と考察している。
農業では、やせた土地や長期間同じ場所で栽培した土地は養分が不足する。肥料を与え土地に養分を補う必要がある。その中でも、リン、窒素、カリウムは、特に不足しがちな養分である。
そのため、この三つの栄養素は、常に外から土壌に肥料として供給する必要があった。
鳥の糞には、窒素、アンモニア、尿酸、リン酸などが多く含まれているため良質な肥料になったのであろう。
小野信一氏は、朝日長者伝説の内容の内、「餅を矢で射た」ことを「乱獲」と捉え、「千町無田」を「やせた黒ボク土」と診たうえで、「鳥の糞」で補われていた「リン酸をはじめとする肥料」が、鳥がいなくなったことで補われなくなり、「稲が実らなくなった」と考察している。
これは、「伝説」を「科学」で捉え直した面白い「見方」である。まさしく、「見方」を変えれば、「見え方」が変わるという一例である。
そして、小野信一氏は、論文のまとめとして、「古代の環境破壊は、時の政府(大和朝廷)をも悩ませた。天武天皇の時代675年に、「殺生禁断・肉食禁避の勅」が発布され、鳥獣の狩猟・食肉が禁止されている。家畜糞尿(ふんにょう)などの有機性廃棄物が溢(あふ)れかえり、化学肥料が安価に入手できる現代では、考えも及ばない内容かもしれないが、作物の生産には必ず養分(肥料成分)が要るということをきちんと認識しておくことは、これからの食料確保の観点からも大切なことではないかと筆者は考える」と述べている。日々を場当たり的に過ごす私たち現在人に対する教訓であろう。
ところで、オセアニア地方に、「ナウル共和国」というバチカンやモナコに次いで、世界で3番目に小さい国がある。島国である。
このナウル島には、サンゴ礁の上に海鳥の糞が堆積してできた「グアノ」と呼ばれるリン鉱石が大量に埋蔵されていた。このリン鉱石はナウル共和国に大きな恩恵をもたらした。リン鉱石の主な用途は肥料である。ナウルは20世紀末まで、リン鉱石を輸出することで莫大な利益を得た。しかしながら、豊かだったナウル共和国もリン鉱石を採り尽くした後は衰退していった。ただ、2004年からの改革により状況は改善されているとのこと。
鳥の糞という、鳥によりもたらされた、自然の恩恵にまつわる、地域興亡の物語である。鳥にまつわり、環境保護・資源保護という点では、「千町無田」の朝日長者伝説と同様と思われたので記載した。
(朝日神社はなぜ創建された)
そして、この「千町無田」には「朝日神社」がある。
この「千町無田」で本格的に開拓が始まったのは明治になってからのことである。明治22(1889)年に筑後平野を襲った筑後川大洪水によって生活の基盤を失った多くの小作農民が、筑後川を遡(さかのぼ)って千町無田の開拓に挑むことになる。開拓が始まった当初には、どうしても水稲がうまく育たなかった。それを見た農民たちは、「朝日長者の祟(たた)り」だと考えたようだ。
そのため、開拓村の中に「朝日神社」を祀って、稲作の定着を祈願したというのである。
「千町無田」が、本当の意味で「美田」に変わるのは、黒ボク土とリン酸との関係が料学的に解明され、千町無田の水田にも十分なリン酸肥料が施されるようになる戦後になってからのことである。